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日西経済友好会 第66回定例会活動報告


日時:2014年03月26日(金)19:00〜21:30
場所:カフェ・ジュリエ
参加者:39名(講師含む)
  講演原稿(スペイン語)  
   
1) 講演:ファン・カトレット師 Padre Juan Catret (上智大学神学部、イエズス会修道院教授)
  初めてヨーロッパに渡った日本人 「ベルナルド・薩摩の生涯」
   
  講演概要
  鹿児島市は、イタリアのナポリとよく比べられます。どちらも気候は温暖、土地の人の性格は豪胆で、情熱的、活火山があり、鹿児島は桜島、ナポリはベスビオス火山が噴煙を吐いています。

ザビエルが、1549年8月15日 鹿児島に到着した頃、 この地には、薩摩の国を治める戦国大名島津家の居城がありました。
当時の戦国大名島津貴久は、外国との取引に熱心で、1543年 種子島に漂着したポルトガル船から、ヨーロッパの火縄銃を買い入れ、これを最初に日本に持ち込んだ人物です。
そのような訳で、ザビエルの来訪も歓迎、最初は、領土内での身の安全を保障し、更にカトリック宣教の許可も与えましたが、その後 仏教の僧侶たちの抗議を受け、これを撤回することになります。
今日の主人公、ベルナルドは、島津貴久に仕える、貧しい下級武士の家柄で、苗字は、カワナベと言ったようです。

武士 サムライ は、気高い精神を持ち、死を怖れず、生に執着せず 常に死を覚悟して生きる心構えを持たなければならないとされています。
武士道の7つの特性として、次のことが挙げられています。
*義―すなわち正義の道理、正しい判断
*勇―すなわち義のために発揮する大胆な勇気。
*仁(じん)―すなわち不運、不幸な人に対する愛情、同情の念。
*礼―すなわち敵をも含む人に対する思いやり、尊敬、礼儀。
*誠(まこと)―すなわち正直、誠実。
*名誉―すなわち自己の尊厳の自覚。
*忠―主君に対する服従と忠誠。してこの武士道は、次の4つの思想に基礎を置いています。
*儒教 *仏教、*禅 *神道

この項目については、新渡戸稲造の「武士道―日本の精神」から引用しました。

処でベルナルドがザビエルに出会ったのは、まだ15歳でしたがもう立派な若侍でした。
当時 山の上に、福正寺という巨大な僧院があり、その麓に島津家の菩提寺がありました。ザビエル一行が乗ったジャンク船は、稲荷川の河口に入港しました。

一行が到着してしばらくして、洗礼名パウロ・サンタフエのアンジローが先ず、大名島津貴久を訪問しました。貴久は当時35歳、仏教、神道、儒教を信奉していましたが、キリスト教の教義を簡単に記したものが欲しいと、アンジローに要求しました。
その一か月後、ザビエルはサンミゲルの祝日を選び9月29日、貴久を訪問しました。
そこで双方贈り物を交換。幼子イエスを抱いたマリア像を見せたところ、貴久もご母堂も大変気に入り是非それが欲しいと言いました。
貴久は、ザビエルにキリスト教布教の許可を与え、その旨を領地内に公布し更に住居までも提供してくれました。

ザビエル一行にとって、先ずは日本語を覚え、次に日本語訳のキリスト教教義書を作ることが大仕事でした。
教義書をアンジローがローマ字表記の日本語に訳しました。これが日本初の教義書で、これを手引書に、宣教師達は、キリスト教を布教しました。ザビエルは日に二回、福正寺 門前階段の最上段に立ち、声高らかにこの教義書を読み上げました。これを聴いて笑う者あり、頭がおかしい、魔術師だと反応はさまざまでしたが、静かに聞き入り、その辛抱強さ、清らかな態度、多大の犠牲を払い、海路(かいろ)はるばるやって来たことに感動するものも少なくありませんでした。

ベルナルドが、どこでザビエルに巡りあったのかは、分かりません。
ザビエルが島津貴久を訪問した時、家来たちも多分同席していたので、その時かもしれませんし、福正寺の門前階段でザビエルが、教義書を読み上げている時だったかもしれません。
いずれにせよ、ザビエルという人物に強烈に引かれたことは確かです。キリスト教の内容をアンジローから説明を受け、更にザビエル自身からも、たどたどしい日本語での解説を聴き、キリスト教に心動かされただけでなく、ザビエルの人となりに深い感銘を受け、洗礼を授けてほしいと申し出ました。そこで ザビエルは、ベルナルドという洗礼名を与えます。中世のフランスに、知性と優しい心のベルナルドという聖人がおり、その性格が、両者似ているところからこの洗礼名を付けたのだと思います。

暫くして 、鹿児島で厄介なことが起きました。キリスト教に改宗する者が、急激に増え、150人にも達したことから、強力な影響力を持つ僧侶達が、かかる状況を危惧し、貴久に圧力をかけてきたのです。
貴久自身は、ザビエルに好意を持ち、ポルトガル人との貿易拡大を期待していたのですが、あるときポルトガル船が、鹿児島ではなく敵方の平戸に入港したことを知り、遂に僧侶たちの圧力に屈し、今後キリスト教に改宗するものは死罪に処するとの御触れを出しました。
ザビエルは、もうこの地に留まることは出来ないと判断、都に上り天皇に合う当初の計画を実行に移します。

1550年8月末、ザビエルと6人の同行者、即ちコスメ・デ・トレス神父、ブラザー・フェルナンデス、3人の日本人通訳、ジョアン、アントニオ、ベルナルド、それにインド人下男アマドールは、自分の荷物や天皇への贈り物を船に積み込み、地元の信徒達に別れを告げ、稲荷川の桟橋を出港しました。

ザビエルは、平戸(ひらど)の島に、その年の8月から10月まで3か月滞在します。平戸では、ポルトガル船船長が、ザビエル一行を礼砲を撃って歓迎。この地の大名松浦隆信は、一行を屋敷に招き歓待します。 既にポルトガル人がこの地に住んでいたことも幸いし、隆信は、すぐザビエルにキリスト教布教の許可を与えました。
ザビエルは、冬になる前に、京都に行きたいと焦っていました。
そこで、一行のうちブラザー・フェルナンデスと忠実なベルナルドだけを連れて10月末 山口へ向け出発、残りの者に平戸のキリスト教信徒100人の世話を任せます。

平戸から山口までは248キロm。最初は、平戸から博多まで2日間の船旅です。小島が多く海岸線が複雑なこの海域は、海賊が跋扈し、乗客から金品を奪うだけでなく奴隷として売り飛ばす等、危険一杯なので、一行は、博多に着くまで船底に身を隠していました。
博多港は、中国、朝鮮との海上貿易の中心なので、裕福な商人が多く住んでおり、住宅数は、一万戸に及ぶほどでした。

次は、博多から山口に向って124キロm 5日〜6日の行程を、3人は歩き始めます。黒崎に着き、下関海峡を船で渡り、それからの行程は難儀を極めました。雪で埋まる細道、宿泊所には、木の枕と蓆があるだけ、宿も食べ物もみつからないときは、ベルナルドが持参した干した飯を炒ったもので、飢えをしのぎ、旅を急ぎました。後年ザビエルは、京都への旅を振り返り、あの時は、ベルナルドの米で命を救われたと述べています。

11月初め、一行は、山口に着きました。ここは、有力大名大内義孝の治める領地の首都。人口1万人以上、多数の神社仏閣がありました。
一行は、内田という人の家に宿をとることが出来ました。
釈迦の生国(しょうごく)、天竺からの人が来たとのニュースは町中に広がり、多くの僧侶や貴族たちが、ザビエル一行に会いたいと押しかけました。
そこでザビエルは、京都への旅を一旦中断、暫く山口に滞在し、キリストの福音を伝えることにしました。
当時43歳の大名大内義孝も、個人的にザビエルに会いたいと、彼を招き、キリスト教の教義を聴きました。

12月17日、一行は、山口を去り、京都へ向かいます。
細い雪道を、時に膝まで雪に埋まりながら歩き、三田尻、徳山を経て岩国に到着。
岩国から堺港までは、2週間以上の瀬戸内海の船旅。最初の寄港地宮島では、朱塗りの厳島神社の美しさに感嘆.三原、尾道を経て堺港に到着します。

堺では、豪商日比谷工藤(くどう)の屋敷に宿泊しました。彼は、親切な人で、たまたま ある高貴な方が、武士たちに護衛されて京都へ行くので、ザビエル一行もそれに随行するよう手配してくれたのです。
ミヤコは、堺から2日間の行程。道中、ザビエルは終始上機嫌で、手に持っている 蜜柑を宙に放っては、それを受け取り、貴族の車の後を 走るようについて行ったと、後に ベルナルドがローマで語っています。翌年の1551年1月末 京都へ着きます。日比谷工藤の紹介状を持って、商人小西の住まいを探し当て、そこに宿泊します。
翌日、小西の使用人に案内され、琵琶湖を望む比叡山の麓にある仏教の僧院兼学問所へ行きました。

それは、ザビエルの目には、 まさにキリスト教の学問所、ソルボンヌ大学を思わせました。
ザビエルとフェルナンデスは外国人なので、人目を惹いたうえ、汚れて擦り切れた僧服を着ていたので、嘲りの的になりました。しかし ベルナルドはサムライとして二人の許を離れず、しっかり守っていました。
僧院の玄関で、ザビエルは落胆します。中に入るには、大僧正への贈り物が必要だったのです。 大僧正に謁見し、学僧達へキリスト教の教義を説く許可を得たかったのですが、贈り物は平戸に置いてきたので、とって引き返すよりほかありません。

そこで、ザビエルは、日本の国王たる天皇に謁見しようと試みます。
然し彼らの身なりは汚れて、贈り物も携えていなかったので、荒れ果てた宮殿に住んでいる天皇とはい、謁見の許可は出ませんでした。
小西の家に戻ると、日本で権力を持っているのは、天皇ではなく「将軍」であり地方に割拠する大名達だと、主が教えてくれました。

そこで ザビエルに新しい考えが浮かびます。即ち 日本では、貧しき十字架のキリストの価値がまだ理解されてないので、キリストの貧しき僕の姿ではなく、ローマからの書状を仰々しく携え、贈り物をもって山口の大名に会おうというものでした。
その前に先ず平戸まで贈り物や荷物を取りにいかなければなりません。

平戸へ戻る旅も、2月の寒さが身に沁みました。3月半ばにようやく平戸に到着。ザビエルら三人の一行は、自分の荷物とヨーロッパの贈り物を取って引き返し、小郡(おごり)まで船で行き、そこから荷物を馬の背で運び、徒歩で山口に到着します。
今回のザビエルは、絹の祭服を纏い、ゴアの司祭の紹介状を携え、インドのポルトガル大使として謁見を願い出ました。
謁見が叶い、16品目に及ぶ贈り物を大名へ差し出しました。特に義孝や家臣の関心を引いたのは、機械時計、オルゴール、凝った装飾を施した鉄砲、メガネ、望遠鏡、美しい刺繍の布、ガラスの花瓶、ワイン、書籍、絵画、茶わん等の品でした。
義孝は大いに喜び、ザビエルに望むものを贈りたいと申し出ました。
ザビエルは、キリスト教布教の許可だけを望み、義孝はそれを許し、何者も宣教師たちの邪魔をしてはならぬと命令、更に住いまでも提供してくれました。
5月から7月まで、ザビエルは、フェルナンデスやベルナルドと共に山口で布教を続けました。

その年の8月末、ポルトガル船が、九州の北東、豊後に着いたとのニュースがザビエルの耳に入りました。また豊後の大名大友義鎮(よししげ)からは招待状、ポルトガル船の船長で旧知のドウアルテ・デ・ガマからも手紙が届いたので、ザビエルは、コスメ・デ・トルレスを平戸から山口に呼び寄せ、山口での布教は、トルレスとフェルナンデスに任せ、自身は、ジョアンを通訳に、ベルナルドと山口の青年信徒マテオをボデイーガードに7日間かけて豊後へ行きました。
豊後に着くとベルナルドとマテオは、ザビエルの許を離れたくない、一緒にゴアやヨーロッパ、出来れば、聖地エルサレムにまでもついて行きたいと言い張りました。

ポルトガル船の船長は礼砲を撃って、ザビエルを迎え再会を喜びます。
22歳の若き大名大友義重は、ザビエルが着いたと知るや、一行を屋敷に招き、一方 ザビエルは、ゴアの大使として豪華に着飾ってそこへ出向き、丁重なもてなしを受けました。義重は、贈り物の鉄砲に特に関心を示し、ザビエルとも、すぐに打ち解け、キリスト教布教の許可を与えるだけでなく住居も提供してくれました。
後に彼は、尊敬するザビエルと同じフランシスコの名前で洗礼を受けます。

ザビエル一行3人は、豊後に9月、10月と滞在しましたが、ザビエルは、インドやマラッカの状況が気になり、いったん戻って、そこで宣教師を募り、彼らを連れて、一年後の1552年8月頃日本へ帰ることにしました。
1551年11月、ザビエルと共に、インドやヨーロッパへの旅を夢見るベルナルドとマテオを乗せたポルトガル船は 中国とインドにむけ沖野浜港を出港します。

二人とも、ザビエルが語る永遠の都ローマの美しさ、ローマ教皇の偉大さにすっかり心奪われ、是非自分の目で見たいと思うようになっていました。
一行を乗せた船は、マラッカ、コチンを経て、翌年2月初め、ゴアに入港しました。
その後4月17日、ザビエルは一人で、ポルトガル船で中国へ向け出発しました。
マテオは、インドの灼熱の暑さに体力が耐え切れず、その後すぐに亡くなります。

更に ベルナルドが、ポルトガル人の仲間二人と1553年3月リスボンに向け出発する直前、ザビエルが前年の12月3日、サンチャン島で亡くなったとの知らせが入ります。ベルナルドは、もちろんゴアのイエズス会全体が、大きなショックを受けました。
ゴアを出港したポルトガル船団は、アフリカ大陸の南を海岸沿いに航海し、大西洋を北上。この間 大嵐の連続で、船団は6隻の船を失い、ベルナルド達は船酔いと、のどの渇きに苦しみながら、ようやく1553年9月リスボンに入港しました。

ベルナルドは、リスボンの有名なイエズス会のサン・アントニオ学院に宿泊することになりました。長い船旅の後で、誰もが疲労困憊でしたが、ベルナルドは、特に体力の衰え激しく、数か月静養し 翌年2月半ばに、漸く健康を回復しました。

当時の記録によると、ベルナルドは、ポルトガルのイエズス会会員たちに、とても好い印象を与えたようです。
彼は、イエズス会に入会する前に、先ず二人の修道士に連れられてリスボンの主な歴史的建造物を見学したことでしょう。
サン・ホルヘ城、サンタ・マヨール大聖堂、リスボン港にあるベレンの塔、サンジェロニモ修道院等訪れ、その素晴らしさに感嘆の声を上げたと思います。

これ等の建造物に感動したベルナルドは、一層イエズス会の魅力にひかれ、2月後半には入会が認められました。こうして、彼の修道士見習い修練が、コインブラで始まります。 一方 彼を、ローマにいるイエズス会創立者イグナチオ・ロヨラに会わせてみようとの考えが出てきました。

それを知り、ロヨラは、ポルトガル地区イエズス会最高責任者宛て書簡で「もしベルナルドの健康に問題ないのであれば、彼を、暫くローマによこしてよい」と書いています。

そこでベルナルドは、その年の7月17日、ローマの修学院に赴任する看護師、ブラザー・ルイス・クアレスマに伴われ、バルセロナに向けコインブラを出発します。

イグナチオ・ロヨラの側で生活し、聖ペテロ、聖パウロの墓前で祈り、教皇の足元にひざまずく。考えるだけで、彼はうれしさがこみ上げてきました。
バルセロナまでは、サラマンカ、セゴビア、バレンシアを通って行きます。
真夏、馬の背に乗っての旅は、過酷なものでした。

遂にサラマンカで彼は、高熱と腹痛に見舞われますが、必死で我慢します。そのうち病状が少し回復したので、望んでいたスペイン最古の大学、1253年開校のサラマンカ大学や二つの大聖堂も訪問することが出来ました。

セゴビアまで来ると、再び体調を崩し、イエズス会の友、ルイス・デ・メンドサの家にしばらく厄介になり静養します。体調が回復すると、メンドサは、彼をセゴビアの名所に案内したと思います。ローマの水道橋、アルカサル、サンタ・マリア大聖堂等を見物したことでしょう。

セゴビアから、また 馬の背の長い旅をつづけ、11月6日か7日、バレンシアに到着。
そこでは、ゴッシ風大聖堂を訪問し、最後の晩餐のキリストの聖杯を見ることが出来たことでしょう。
バルセロナには多分12月初めごろ着き、そこから、すぐに船でシシリアに向いました。
バルセロナからシシリアまでの船旅は、海賊や嵐の危険がありますが、無事でした。
シチリアで船を乗り換え、ナポリに、クリスマスの頃到着。
茲でベルナルドは、ベスビオス火山を遠望、故郷の桜島と重なり、幼いころの思い出に浸ったかもしれません。

クリスマスと新年をナポリで過ごしてから、旅をつづけ ローマに1555年1月5日ないし6日に着きました。
ベルナルドは、イグナチオ・ロヨラにとても好い印象を与えました。
ローマでは先ず、四大バジリカを訪問しました。当時、サンピエトロ寺院の円天井はありませんでしたが、寺院内にあるミケランジェロのピエタ像を見て感動したと思います。

ベルナルドは、ポルトガル語は問題なく、イタリア語もある程度出来たので、ローマ学院では、ラテン語を学びたいと思っていました。
ローマ滞在中の1555年頃のエピソードですが、後にヴュルツブルグの司教になったフェデリック・フォン・ヴィルスベルクが、ロヨラを訪問した際、そこにいたベルナルドから、イタリア語翻訳付きの日本語の書を贈り物としてもらい、終生これを後生大事にしていたとのことです。

このころ 総長イグナチオ・ロヨラは、ローマ学院が財政難なので、学院で学んでいるいろいろな国籍の学生をスペインやポルトガルの学院へ送り込もうと考えました。それは、国籍の違う者同士の交流によるメリットも期待できると思ったからです。
この方針に基づき その年の1555年10月18日、ベルナルドも含め、いろいろな国籍の学生がローマを後にしました。
若い元気な学生は、フィレンツエまでは徒歩で行きましたが、身体の弱い者は、馬二頭の馬車に乗せられました。グループリーダーの学生は、虚弱なベルナルドに特に気を付けるようにとの指示を受けていました。

11月28日ジェノバに到着します。
茲で、ベルナルドの一途な純粋さを表す事件が起ました。
同行者の中に、学識豊かでヘブライ語を学んだアレサンドロというシチリアの青年がおりました。ベルナルドは、ヘブライ語はイエスを十字架にかけた民の言葉だから、この言葉を学んだものと旅をするのは、イエスの敵と一緒にいるのと同じだと考え、我慢できないとの態度を度々とりました。ことが大きくなりそうになったので、一行の責任者が、ベルナルドに説明し、二人の仲をとりなしたと、ナダール神父が日記に記しています。

一行は、ジェノバで数日待ってから12月21日出港。平穏な船旅で翌年1556年1月1日、スペインのアリカンテに着き、アリカンテからバジャドリまでほぼ一か月間歩き続けます。バジャドリから全員ポルトガルに向って進み、2月12日にリスボンに到着。 間もなくベルナルドは、ほかの学生と共に有名なコインブラ学院へ送られました。
茲に至るまでの長旅で、ベルナルドの健康は著しく衰えていました。
この年、彼の体調は、一進一退の状態が続いているところへ、イエズス会創設者イグナチ・ロヨラが、その年の7月31日65歳で逝去との知らせが、一月遅れで入りました。
悲嘆にくれたベルナルドは、自分も間もなくこの世に別れを告げ、天国で、ロヨラと再会することになろうと予感します。

その後ベルナルドは、再び重い病に罹り、翌年の1557年灰の水曜日の3月3日か、その少し前2月末ごろ、息を引き取りました。23歳でした。なぜか コインブラ学院の記録に、彼の死亡確定日は記されていません。
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの果(み)を結ぶ」(ヨハネ12・24)
ベルナルドの生涯を書き終えたとき、キリストの生涯を表すこの言葉が、頭に浮かびました。 最初にヨーロッパに渡った日本人、最初の日本人イエズス会会員ベルナルドはまさに”一粒の麦”として生涯を終えた様に思います。
イエズス会の学院で修練を終えましたが、司祭には、なっていませんでした。
日本に帰国し、キリスト教を布教することも出来ませんでした。
彼の墓は、コインブラのイエズス会教会の中にあります。
ローマにあるイエズス会本部の教会を模した大変美しい教会で、特にそのファサードは見事です。祭壇に入り、聖イグナチオの立像が見下ろすその下に、ベルナルドは葬られています。
   
     
    以上   
(文責 澤木)




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