第47回定例会

日時:2010年3月19日(金)18:45~21:30

場所:カフェ・ジュリエ

参加者:26名

1)ゴンサロ・ロブレド 氏(フリージャーナリスト(元EFE, El Pais 特派員))  講演
2)概況説明

1)講演概要

    ゴンサロ・ロブレド 氏(フリージャーナリスト(元EFE, El Pais 特派員))
    「千葉県御宿沖に眠るスペイン財宝の行方」
講演概要
    1.スペイン・ガレオン船サンフランシスコ号御宿沖沈没事件とは

  • 事件概要
    1609年9月30日 スペインのガレオン船が御宿岩和田海岸沖で座礁沈没した。このあたりの海底は起伏が激しく、浅いところは3M、深いところは70Mと山岳状態のため、干潮時は、船底が岩に触れる危険があり、まさしくこのガレオン船は、深夜 岩礁に乗り上げ沈没した。
    当初、乗組員たちは、太平洋のただなかに投げ出されたものと思ったが、夜が明けると目前に海岸が見え、 一人が泳いで岸に上がるとそこに稲田が広がり、日本に漂着した事を知った。これは、殺されると 皆 恐怖感を持った。
    というのは、当時フィリッピンと日本の間では既に貿易が行われており、人の交流もあったので、日本でキリシタンが殺害されていることや長崎26聖人殉教(1597年)事件も、彼等の耳に入っていたからである。
    ところが漂着した彼等317人は、殺害されることなく暖かく迎えられた。
    その地を治めていた大多喜城主 本多氏は、将軍に連絡、一行の代表ロドリゴ・ビベロスは、将軍及び家康にも謁見する事が出来た。
    将軍は、さらに三浦按針に命じ、一行が帰国する船を造らせ、そのうえ4000Ducadoの資金を貸し与えた。
    これにより、翌年彼等は無事目的地のアカプルコへ帰ることが出来た。
  • 何故にスペインの船が、フィリッピンから出て、日本に来ていたのか
    歴史とは実に単純なことから出発するもので、15世紀、16世紀世界の海を制覇していた二大大国、スペインとポルトガルは、1494年、スペインのバリャドリで、トルデスイーリャ条約を調印、世界を二分して アフリカ、アジアはポルトガル領、そのほかはスペイン領とすることに決めた。
    この結果、新大陸は、ブラジルを除き、総てスペイン領。 アジア、アフリカの植民地は総て、アンゴラ、モサンビク、ゴア等も含めポルトガル領となった。 特にゴアは当時重要な都市で、アジアの中のパリのような存在、世界各地から人が集まり、最新の航海技術、豪華な食文化を擁し人々の憧れの地だった。 フランシス・コザビエルが日本へ向かったのもゴアからである。
    但し アジアの中で唯一フィリッピンだけは、スペイン領になっていた。
    1565年、フィリッピンからヌエバエスパーニャ(今のメキシコ)までの航路がバスク人ウルダネタにより発見された。即ち、黒潮の存在に気付き、黒潮にのって北上し、日本付近を経てカリフォルニアに向かい、そこからアカプルコまで行き、帰りはアカプルコから早い海流に乗ってマニラに戻ると言う 往復ルートである。
    マニラから出るガレオン船の積荷は、ヴェトナム、カンボジア、中国等の産品、財宝、特にヨーロッパで高価に売れる中国の陶器類で、船がアカプルコに着くと、積荷は馬で ベラクルス港まで運ばれ、そこから船でスペインのカデイス、セビーリャに到着し、スペインと関係するヨーロッパの国々に行き渡っていった。
    マニラ~アカプルコ~スペイン~アカプルコ~マニラ往復航路は、将にグローバリゼイションの貿易航路となっていたのである。
    ガレオン船サンフランシスコ号も、アカプルコに向け、マニラを出港したものの、出港が数週間遅れたため、台風の時期に遭遇、当時 日本付近の正確な地図はなく 岩和田沖で座礁沈没したのであった。
  • 日西関係史上の三大事件
    第一が1549年のフランシスコ・ザビエルの来日。
    これを契機にポルトガルの商人、スペイン、ポルトガルの宣教師などが続々来日する。
    第二が1609年のガレオン船サンフランシスコ号遭難事件。
    この事件は、日本では、ほとんど忘れられており、教科書にも取り上げられていないが、大きな歴史的意味を持っている。
    当時日本の海上交流はフィリッピンや東アジア、中国との間に限られたいたものが、初めて太平洋横断新大陸到着の船が建造されたこと。
    またこれが契機になり 第三の出来事、1613年、伊達政宗の命を受け、支倉常長一行が、日本で建造された船で、アカプルコへ向かい、ベラクルス~スペインのルートでバチカンやフランスを訪れている。
    2.沈没したガレオン船サンフランシスコ号の財宝は

  • ガレオン船とは
    当時としては最大の遠洋航海船で、600人~1,000人まで乗船できるうえに貨物も輸送するジャンボジェット機のような存在であった。
    帆船なので、船の方向を変えることが出来たが、当時の航海器機類は不完全なものだった為、船長は、風の方向や、海流、天文の知識が必要だった。
    船の発達史から見ると、最初の遠洋船はコロンブスが使ったカラベラ船、次に出てきたのがカラック船(Carrack, Carraca)。これは船体が重く、船足が遅い上に動かすのが難しく、海岸に接岸できないため、上陸用小船を積んでいた。
    この後に出てきたのがガレオン船である。
    どの船にも厨房があり、ハム、乾し果実、干し魚、ニンニク、玉ねぎ、ピメント、ワインなどを航海中の食事として積み込んでいた。
  • 財宝を積んで沈没したガレオン船は何隻か
    財宝を積んで今も海に眠っているスペイン・ポルトガルの船は、大体 3千~4千隻。ペルー、パナマ、コロンビアのカルタヘナ、ベラクルス~ハバナ~カデイスの航路が財宝輸送ルートなので沈没船はこのあたりに集中しており、コロンビア近海だけでも1200隻の沈没ガレオン船があるといわれている。
    これら沈没船はまだほとんど引き揚げられていないところから、財宝探しの冒険家が現れることになる。
  • 財宝探しの冒険家
    先ずは米国人メール・フィッシャー。 彼は養鶏業で得た富を、沈没船の財宝探しにあて探査船を購入、潜水夫を雇い「Today is the day」(今日こそがその日)をモットーに16年間探し続け、遂に1985年 アトーチャ号を発見 5億ドルの財宝を手に入れた。
    ロベル・マルクスは、1972年 カリブ海バハマでマラビリャ号を発見。
    フラン・ゴデイオは、1992年マニラ沖で御宿の沈没船サンフランシスコ号とそっくりのサンデイエーゴ号を発見した。
    沈没船の積んでいる財宝は平均一隻4億~5億ドル。見つけた財宝は、サザビーズ社やクリステーズ社などのオークションにかけて売却。対象財宝は大きなものから金貨一枚にいたるまでさまざま。因みに故人になったフィッシャーの家族が金貨一枚 3千から3,500ドルで売っているのでネットで購入可能。
  • 探し当てた財宝は誰のものか
    英国海事法の「Finder is keeper」の原則に基づき、慣習として財宝は、それを見つけた人に帰属することになるが、軍用船は、大使館と同じ国家とみなされるので、財宝は沈没船の国に帰属するとしている。
    沈没船に眠る金の総量は、中央銀行保有の金を上回るといわれているスペインは、沈没船財宝の所有権を主張しており、茲に新たな法律を定める必要性が出てきた。
    そこでユネスコは2001年水中世界遺産保護条約を制定したが、現在の所20カ国のみ調印している。
    近海に最大の財宝を積んで沈没したサンホセ号があるといわれるコロンビアは調印しおらず、スペインの所有権主張に対し、いったい積荷の金やエメラルドは何処から持ってきたものなのかと反論している。
    この条約に日本も調印していないが、これは漁業関係者や漁業関係法規との絡みよるものと思われるも、理由は明らかでない。
  • サンフランシスコ号の財宝は
    現在財宝を積んだ沈没ガレオン船は、日本近海に3隻あるといわれている。
    九州付近と、長崎、そして御宿沖。長崎の場合は港湾拡張の為セメントで海底が埋められたので財宝探しは出来ない。
    まだ海底に眠っているサンフランシスコ号の財宝は2億~3億ドルと想定されている。
    千葉県や御宿市が財宝探しのリスクをとるとは思えない。
    そこで若し財宝を探し当てたら、落し物扱いなので、御宿市長へ届出し 3ヶ月すれば 自分のものになる。
    先般 サンフランシスコ号財宝探しに焦点をあてたドキュメンタリーを作成、昨年大使館で発表したが、今年11月 セルバンテス協会でも上映するので 是非ご覧頂きたい。
    -質疑応答-

  • P. 御宿沖のサンフランシスコ号は岸からどれくらい離れたところに沈んでいるのか。
    R. インデイアス古文書館には、ロドリゴ・ビベロスの記した報告書があり、それによると2レグア(約11キロ)と記されている。但しスペイン人の記述は、誇張表現が多いので信用できず。 317人もの乗組員が泳ぎ着いた事実から考えると岸から可なり近いものと思う。ガレオン船は、そう深くない窪みに沈んでいるのかもしれないが、それを証拠立てるものはない。

    P. コロンブスのサンタ・マリア号や支倉常長のサンフアン・バウチスタ号のレプリカを実際に見たが、サンフランシスコ号はそれより大きいのか。
    R. 400人~500人収容できるうえに2百万個の金貨や財宝を積んでいるので、当時としてはジャンボジェットのような大きな船である。
    幕府が、一行の帰国のために造った船は100人収容なので残りは、日本に残ったのかどうかは分からない。 但し乗組員は海を知らない貧しい内陸部出身の人達が多く、仕事を得るために船に乗り組んできているので、一旦海難事故に遭うと、再び海に出ることを恐れその土地に留まることが多い。 金髪、碧眼の子孫いるかも知れない。

    P. 財宝探しにはどれくらいの費用がかかるか。
    R. 最初は、古文書、記録の調査に2年程度を要し、その上で沈没船探しを始めることになるが 大体 5千万ドル程度と見てよい。

2) 概況説明

  • 講演テーマが財宝探しという楽しい内容に加え、ユーモアを交えたロブレドさんのスペイン語が理解しやすく、我々一同、自分のヒアリング能力に自信を持つことが出来たのではないかと思う。
    懇親会の場でも 在日30年という親しみから、多くの会員が同氏と接触、宝探しの話しに花が咲き,盛況裡に例会を終えることが出来た。

以上
(文責 澤木)