第61回定例会

日時:2013年3月8日(金)19:00~21:30

場所:カフェ・ジュリエ

参加者:33名(講師含む)

講演:ファン・カトレット師 Padre Juan Catret(上智大学神学部、イエズス会修道院教授)

  「日本初の外交使節 スペインへ行く。支倉常長1613-1620」
PRIMERA MISIÓN DIPLOMATICA DE JAPÓN A ESPAÑA HASEKURA TUNENAGA 1613-1620

講師略歴:
1937年生、スペイン・バレンシア出身
哲学と進学を修められ、1962年来日。
広島の修道院長、エリザベート音楽大学学長等歴任。
現在、上智大学神学部、イエズス会修道院教授。
日本語で記した著書多数。

レジュメ
講演原稿(スペイン語)
400周年資料

講演概要

当初、トーマス・エセイサバレナ師に講師をお願いしていたが、突然入院されたため、同師の紹介で、同様に当時のスペイン・日本の歴史に造詣の深いカトレット師にお願いした。

下記内容に付きスペイン語でご講演頂いた。詳細は講演レジュメ、講演原稿(スペイン語及び翻訳)の通り。
1. ヨーロッパに渡った最初の日本人(ベルナルド・デ・サツマ)
2. 太平洋を最初に渡った日本人、ヨーロッパに2番目に渡った日本人(支倉常長)
3. 日本初の外交使節団スペイン派遣の経緯。
4. 徳川家康-伊達政宗は、支倉常長に外交使節団長を命じた。
5. 1613年10月28日、月の浦港(宮城県石巻)を出港、1614年1月25日、アカプルコに到着。
6. 1614年6月10日、ガレオン船、サンホセ号でベラクルスを出港、1614年7月ハバナに到着。
7. ハバナからスペインへ向け出発、1614年10月セビリャ(サンルーカル・デ・バラメダ、コリア・デル・リオ)に到着、その後、トレドを経てマドリッドで国王フェリッペ3世に謁見。
8. 支倉常長は、レルマ公を教父として洗礼を受ける。(フェリッペ・フランシスコ)
9. バルセロナからローマへの途中、南フランスのセイント・トロペに立ち寄る。
10. ローマで法王パウロ5世に謁見。(チビタベッキア市)
11. 1616年1月、スペインのコリア・デル・リオに戻り、アカプルコ、フィリピン経由で帰国することになる。支倉に随行した30名中10名がコリア・デル・リオに留まり、「ハポン」姓を名乗る。現在、約1,000人が「ハポン」姓と言われる。「カロ」姓の人もいるが、支倉の「クラ」から来たものと思われる。
12. 1617年7月セビリャを出発、アカプルコ経由マニラに到着、2年滞在の後、1620年9月、日本(宮城県)に帰国。
13. 1622年、ソテロ神父は再度、日本入国、長崎県大村で殉教。
14. 支倉は帰国後もキリスト教を棄教せず、妻も息子もキリシタンとなる。
15. 初めての外交使節団の目的は何だったのか?
「日本に於けるキリスト教会を強化するため?」、「通商条約の締結?」(アジア-ヨーロッパ間のグローバリゼーション)

(質疑応答)
(1) 初の苗字が「ハポン」の人が321名、一番目と二番目ともに「ハポン」の人が510名と聞いたが、これはいつの統計か?
– 2008年の統計である。

(2) 「ハポン」姓に関連、支倉常長に随行した30名の内10名が残ったのは何故か?
– その通り、一番妥当な解釈だと思う。尚、支倉常長が洗礼を受けたのは、内面的なものからかも知れない。キリスト教信者として死ぬまで信仰を捨てなかった。
この質問はハポン姓の子孫達に聞いても答えられないと思う。
徳川家康以降の弾圧は非常に酷かったので、私だったら日本には帰れなかったかも知れない。遠藤周作の「沈黙」でも、イエズス会のフェレイラ神父が拷問に屈して棄教したことが描かれている。

(3) 支倉常長の書いていた日記が未だ見付かっていないが、果たして実際、日本に持ち帰ったのか?或いは未だスペインにあるのか?日本語で書かれた文献で解読されたものはあるか?
– 良い質問だが、即答出来ないので、知り合いにも聞いて調べてみる。

(4) 支倉常長はデスカルサス・レアレス修道院で洗礼を受けたが、通常、洗礼は教会で受けるものではないか?
– 王族の由緒ある修道院で、スペイン側が特別の配慮を払ったということである。(この修道院は、1559年、フアナ王女によって創設された。)

概況コメント

第60回定例会(講師:林貞男氏)に引き続き同一のテーマであったが、異なった視点から、光の当て方を変えると、新しい歴史事実が浮かび上がって来るもので、非常に興味深い講演であった。
講演後は、スペインワインと共に話が弾み盛会となった。

以上
(文責 清水)